973 食いしばりと重心

第973号 2017年5月16日
▼ 食いしばりと重心

食いしばりのきつい人がいます。強く噛み過ぎて、虫歯が出来たのかと思うほど、歯の根元が痛む人もいるようです。なぜ食いしばるのか、という疑問は措くとして、食いしばりによって歯の根本が傷む。歯茎がぐらぐらになって来ます。とすれば食いしばりは避けられるものなら、避けたいですね。

歯の寿命は、通常そのご当人の寿命よりかなり短く、70歳を過ぎれば歯の賞味期限は切れてしまうそうです。歯の賞味期限というのもおかしいですが、、 http://www.dentallife.info/ に70歳の人に平均何本の歯が残っているか、その答えがあります。

というわけで、食いしばりは感心できません。できれば避けたい。では食いしばりを改善する方法があるか。

先日の集中初級講座の席上、「食いしばりで困っている人はいますか」という私の問いかけに対し、Tさんが名乗りを上げられた。そこで登場したTさんに対し、手の小指を使って重心を変更する操法を行いました。(この操法については、過去の号で紹介したはず)

(後日、初級で、こういうことまでやってしまうのは、サービスが良すぎる、と言われましたが・・・。朱鯨亭はいつもサービス満点が身上です。)

そして、

── どうですか。と聞くと、

── うん、噛めなくなりました。という答え。

これで、重心を変更すると、食いしばりが改善することがわかります。

つまり、こういうことです。下顎は、耳のところの関節で上からぶら下がっています。ですから、下顎は重心の位置がどこにあるかを正確に察知しているわけです。こんなところにも感覚器官があったとは驚きですが、そうとしか考えられません。下顎は身体の重心をしっかりと感じている。

そして、その重心は小指で距骨を動かしただけなんですから、身体の精妙さにつくづく感じ入ってしまいます。

972 鼻の周りの腫れ物

972号 2017年5月15日 鼻の周りの腫れ物

鼻の周りというか、鼻の穴の周りというか、ともかくその辺りに化膿を起こして、押すと痛むという人がいます。このあたりは脂肪を分泌しやすい場所なので、その脂肪がうまく分泌されずに溜まって、化膿するのでしょう。

そう言われるとなるほど、そういうこともある、と頷く人もいるに違いありません。

そんな時にどうするか。耳鼻咽喉科あたりに駆け込みますか。慌てなくても、簡単に楽になる方法があります。

まず、よく手を石鹸をつけてよく洗って。どの指でもよいから、指先を圧痛のあるところに当てます。当てるだけで押してはダメです。指先で愉気をするだけです。これで2~3分も愉気すれば、しばらくしてから押してみて、痛みが消えているはずです。

この原理は、鼻の周りだけでなく、顔面の色々な腫れ物にも応用できますから、試してみてください。

「めばちこ」(ものもらい)に愉気がよく効くことは、周知の事実だと思います。ただし、この場合は直接手を当てず、離して掌をかざすだけでOKです。

「にきび」にも効くかもしれません。私自身には、もう「にきび」がないので、試してみるわけに行きませんが。ともかく簡単に痛みがとれるのは不思議です。

口の周りや顎にできる腫れ物にも試してみてください。

971 不整脈に井形ムドラー

2017年5月14日  不整脈に井形ムドラー

仏像好きの方は、仏の手が結ぶ印にも関心をお持ちでしょう。色々な形があり、この形をムドラーと呼びます。仏像といえば奈良・興福寺の阿修羅像が超有名で、人気がありますが、三面六臂の手の形が(左右はほぼ対称のようですが)少しずつ違っていることにお気づきでしょうか。

もちろん仏像でなくても、生きた人間がやってもいいわけで、かつてスリー・チャクラバルティというインドの女性ヒーラーの本 『永遠の旅路』 を紹介したことがありました。そこに各種のムドラーが載っていて、たいへん役に立つことを指摘しました。

そこで、私も一つムドラーを追加してみようというわけでもありませんが、こういうのもムドラーと呼んでもよかろうと思うので、一つ付け加えておくことにします。

最近、動悸がするとか、不整脈がある、という訴えをよく聞きます。西洋医学的に言えば、心臓の洞房結節というところから発する電気信号が乱れている状態です。骨格の面から言えば、胸椎3番(とその周辺)の異常があるものと思われます。

もちろんここだけが異常だというのではなく、仙骨の歪み、尾骨の歪みに始まって、腰椎・胸椎下部のあちこちにも歪みがあるわけですから、背骨全体を整える必要があります。そのためには、「体幹操法」 が有効です。(これについて知りたい方は教室にお越しください)

共鳴法からいうと、胸椎3番は、中指の基節骨の中ほど甲側に相応します。そこで、そこを左右両手の指で互いに愉気すればどうか、と考えたわけです。

まず左手中指の基節骨の甲側まん中へんに、右手の示指の先を当てます。次に左手の示指の先を右手中指の基節骨の甲側まん中へんに当てます。

下から順にどの指かを書きますと、まず左手中指、次に右手示指、次に左手示指、という順で、右手の中指が右手示指と並んでいます。

全体の形をおおまかに言えば、右手の示指と中指の二本を並べて、左手の中指と示指とで下と上から挟んでいるということになるでしょうか。上から見れば、左右の二本ずつの指で 「井」 の字が出来ているでしょう。大阪風に言えば、四ツ橋の形になっているというところかもしれません。

それで、この形を 「井形ムドラー」 と呼んでおくことにします。井形ムドラーをすると、不整脈が改善する可能性がある、と言っておきたいと思います。永久に改善するというわけではありませんが、ともかく、一時的であっても不整脈が改善する。

ひょっとすると、汗の異常がある人がやってみてもよい。汗の異常も改善する可能性があります。

不整脈がある人は、いつ起こるか、と不安な気持ちを抱えているもので、一時的にでも改善する方法があれば、不安が消えて楽になるかもしれません。不安ほど体に悪いものはありませんので、このムドラーで助かる人が多いのではないかと考えます。どうぞ、お試しください。

970 こむらがえり

第970号 2017年4月28日

「足が攣る」という表現は、関西では「こぶら返り」ということが多いようです。「こぶら」と言ってももちろん蛇の名前ではなく、「こむら」つまり「ふくらはぎ」の別名です。

これに関連して、教室参加のTさんから資料をいただきました。

増永静人『指圧療法』(創元医学新書)より引用。

「足三里と腓腹筋起始部を指圧しながら、足先を背側に曲げる。」

「腓腹筋起始部」とは、膕(ひかがみ、膝裏)の両側に大腿二頭筋・半腱様筋の太い腱がありますが、その内側、膝窩中央と腱の中間の部分です。

続いて、もう一つの情報。

橋本行生『家庭医療事典』(農文協)からの引用。

「水泳中にこむらがえりを起こして、おぼれ死ぬ人がけっこういる。こむらがえりは、急激 な筋肉のひきつれで、その原因は過換気症候群(無理な深呼吸や過呼吸をしたため、 酸素をとりすぎ、血中の炭酸ガスが少なくなり、血液がアルカリ性に傾き、不安、興奮状  態で呼吸困難となり、筋肉が興奮しけいれんするもの)が主役である。

寝ていてこむらがえりを起こすのは、悪い夢やおそろしい夢をみて、深呼吸した時に起  こることが多い。

また、冷たい水に急に入ったり、明け方に冷気にあたることが引き金となって起こることも ある。
過換気症候群が原因となっているこむら返りの治療法は、紙袋再呼吸法を行う。これは、 紙袋を鼻と口にあてて、その中で呼吸を繰り返す。紙袋がなければ、ちょっと息をとめて
も、血中の炭酸ガスが増えるので、治療となる。・・・(以下略)」

というのですが、こむらがえりをよく起こす人は、「過呼吸」という原因に思い当たるものでしょうか。私は一向に思い当たりません。でも気づかない間におそろしい夢を見ていたのでしょう。

どんなことにしても、情報が数多く集まると、知らなかったことが色々浮かび上がって面白いものですが、寄り道をしてしまった気もします。こむらがえりについての話は、一応、以上で終わりとします。

969 腓骨が下がると

第969号 2017年4月25日

腓骨(ひこつ)という骨は、厄介な骨で、同時に便利な骨でもあります。何が厄介かといえば、下がりやすいのが厄介です。何が便利かといえば、下がっているか、外へ出てきているか、という点が解りやすい、施術者にとってはわかりやすく便利な骨ですね。

しかし、下がっているのが簡単に直せるか、となれば、難しいと言わざるを得ない。よほど柔らかさが保たれている場合を除いて、非常に硬くなっている人が多く、下がっているのを上げるのは、やはり簡単とはいえません。

それと同時に、上下に影響を与える。一つは下。趾(あしゆび)が硬くなっている人が多い。これは腓骨が趾に影響を与えるというより、逆に趾が腓骨に影響しているのでしょう。それと上。腸脛靭帯(ちょうけいじんたい、太ももの外側のベルト状の靭帯)が硬くなっている人が多い。

先日も復習会の席上、靴屋のKさんが言われるのに──趾が硬くなっているのが困る。とくに小指がカチカチですね、皆さん。──そう言われてみると、私の足の小指も確かにカチカチです。なぜか。答えを出しにくい疑問ですが、考えてみれば、腓骨が下がってくることと関係しているのではないだろうか。

腓骨が下がってきて、体重がそとにかかるようになる。すると勢い、小指に負担がかかりますから、カチカチになる。そういうことではないでしょうか。以前に小指の関節が少ない人が増えているという話題を載せましたが、こういうことと関係しているのかもしれません。腓骨が下がるという現象が、人間の退化と関係しているのでしょうか。

そうすると、O脚という現象も、腓骨と関係していることが見えてきますし、その他、坐骨神経痛なども、関連する現象であることが見えてきます。

★前号(足が攣る)へのご感想
(1) 群馬県在住 Aさん
「私は、夜中に足がつるのは、冷えからじゃないかと思います。特に夏場は冷たいものを飲んだり食べたり内蔵が冷えています。そうでなくても、冷房で冷えています。冬と違い湯船で温まることもなくシャワーでさっと済ませてしまう。私も以前はふくらはぎがつりましたが、夏場でも寝る時にレッグウォーマーをつけて寝るようにしたところ、つることはなくなりました。」

(2) ベルギー在住 Kさん
「こむら返り(足が攣る)だけでなく、私の場合は太ももから背中もずっと攣ってしまい、今までに相当苦しみました。・・・確かに寝ている時だと、気温が数日後に落ち込むだろう時とか、日中冷え込んだ時に発作の様に起こります。その痛さは経験していない人にはわかりません。

こむら返りは続いても20分です。その間冷えないようにして毛布にくるまってとにかく立ちます。まっすぐに立って待つのです。誰かがいても、どうできるわけではありません。でもそれであとは楽になりぐっすり眠れます。父はこむら返りで他の筋肉の疲れを全部持って行ってくれるからだと言ってました。

マルセル石鹸が[攣りに効きます] ・・・[足にマルセル石鹸をすり込んでおく]。 なぜ効くのかというのは、シーツの間で温まった石鹸が発生するカリウム=ポタシウムのせいです。それが引き攣りをおさえてくれるのです。これ確かに効きます。

[注]マルセル石鹸というのは、地中海マルセイユで作られていた石鹸で、海藻のカリウムを含んでいるという。日本でも、「マルセル石鹸」の名前で売られているものがある。普通の石鹸は、カリウムではなく、ナトリウム。

というわけで、「足が攣る」人は、色々と苦労が絶えないようです。

968 足が攣る

第968号 2017年4月23日
▼ 足が攣る

タイトルを見て、「攣る」とは何と読むのか迷った方がいらっしゃるかもしれません。「つる」と読みます。

これについては、以前に書いたことがあるようにも思いますが、最近、「足が攣る」という話をよく聞きますので、再度書いておきます。

「足が攣る」という現象が世間で、どのように考えられているのか、私は知りません。しかし私は、この現象は、腓骨が下垂し(下がっ)ていることによると考えています。

「足が攣る」というのは、たいていふくら脛が攣るという場合ですが、中には足裏が攣るという人もいます。あるいは趾(あしゆび)が攣るという人もいますね。

でも、どの場合でも、腓骨の下がっているのを修正すれば直りますから、すべてひっくるめて腓骨の下垂が原因といってもいいと思っています。

では、どうやって下垂を直すのか。もちろん大幅な下垂があると、複雑なことも必要になるものの、足が攣るという程度の下垂であれば、ひと擦りで治ります。

足が攣ったら、皆さん、どうしているんでしょうか。収まるまで、じっと堪えている──そういう人が大多数でしょうか。足が攣ったからといって病院に走る人はいない(いるかもしれませんが)でしょうから、自分で直すのに「治す」という字を使って文句を言われるスジはないでしょうから、おおっぴらに使うことにします。

特に夜中に足が攣るという現象が起こりやすいようですが、その原因は不明です。どなたか、ご意見のある人は教えてください。

そんなことはどうでもいいから、「ひと擦り」とはどうするのか、早く聞きたい? そうですか。ではお教えしましょう。

攣った足と同じ側の手の小指(甲側)を見てください。その側面を【第1関節から第2関節に向けて、そっと撫で上げる】、これだけです。これだけで、夜中の苦痛から逃れられます。

どうぞ、ご家族が困っている時、この方法で助けてあげてください。もちろんあなた自身の場合も。

痛みは何かの警告だという話をよく聞きますが、足が攣るのは、何の警告なのでしょう。

それは、あなたの下腿の腓骨が下がって来ているという警告です。これ以上さがると困るから、何とかしてくれ、というあなたの足からの必死の警告だと思ってください。

967 価値判断と事実判断

第967号 2017年3月31日

時々、古いメルマガを読みたいというリクエストをいただくことがあります。そここ、古いものの中から選んでHPに掲載しているわけですが、すべてではありません。特に比較的新しいものは、出してありません。

そんなわけで、比較的新しいけれど、HPに出ていないものを少し選んで復刊してみる試みをしてようという次第です。今回は2014年7月7日の[第729号]。もとのままではなく、少し手を入れてあります。

「判断する」という言葉があります。「判」は「分ける」とか「分かれる」、「断」は「切る」とか「断つ」ですから、物ごとを「Aグループ」と「非Aグループ」とに「切り分ける」というほどの意味でしょう。

例えば、レストランAの食べ物は「うまい」が、レストランZの食べ物は「うまくない」などと、私たちは毎日いろんな判断をしています。

もちろん、このような【価値判断】だけでなく、この操法は「よく効く」、この操法は「効かない」と判断することもあります。こちらは【事実の判断】です。

収穫した豆を「売り物になる豆」と「売り物にならない豆」とに分けるなら、それも「判断」の一種です。

事実の判断は別として、価値判断は人によって結論が異なる場合があります。というより価値判断は人によって少しずつ違うというのが正確でしょう。

レストラン「朱鯨亭」の料理を人によって「うまい」とするか「まずい」とするか違うかもしれません(ある時、おたくは鯨料理の店ですね、と電話がかかって来たことがありました!)。

客観的な基準があるかと問うてみると、一人ひとりの好みがありますから、それぞれがまことに主観的な判断でものを言うことになります。評論家達は、いかにも客観的な判断をしているように装いますが、客観的な判断など不可能だと言った方がいいでしょう。

音楽の価値判断なども、人によって全然違う。一つの演奏をある評論家は絶賛し、ある評論家は酷評するというのは珍しくありませんね。

こんな具合ですから、たとえ事実の判断であっても判断というのは難しい。特に人の身体に操法を施すという場合の判断は難しい。

観察から始まって、観察 → 判断 → 操法 → 確認と四つ段階があって、その段階の一つが「判断」です。

観察に基づいてこの人の身体はここがこうだからこの操法をしようと「判断」するわけです。的確な判断ができるためには的確な観察が必要ですから、観察が重要なのは間違いありません。

ですが、観察さえ的確であれば的確な判断ができるかとなれば、そうは行きません。Aの操法とBの操法とでは効果が違う。あるいは同じような効果があるとしても、効果の大きさが違う。つまり効き方が違います。ある操法をした後、その操法が果たしてその人に効くかどうかは観察だけでは決められない。

またAの操法をしてからBの操法をする方がいいのか、B→Aの順にするのがいいのか、このあたりにも微妙なところがある。あるいはAの操法をするとして、一度でいいのか、何度か繰り返すのか。これも機械的に決めてしまえません。

また人によっては症状がいくつもある。10ほども症状を並べる人は、決して珍しくありません。特に数多くの症状を抱えている場合、いったいどこから手を付けるのか、これも難しいところです。

ですから観察の結果に基づいて判断し操法する時、どうしても操者の好み主観が入ります。むしろ操法は、そういうものだといったほうがいいのかもしれません。つまり受け手の生きざまと操者は向き合うわけですから、操者の生きざまも操法に出てくる。【二人の生きざまの交流が操法だ】ということになります。

操法をする際の判断の難しさは、この辺りにあります。症状がすべて異なること。人によって効果がすべて異なること。操者の技量によっても、結果が違ってきますから、操法について一般的にものをいうのは本当にむずかしい。

この場合はこうだ、あの場合はどうだと、【断定的にものをいう人を警戒した方がいい】のは、このような問題点があるからです。むしろこういう問題点を自覚して慎重な言い方をする人の方が信頼できると私は思っています。

これは、どこの施術院を選ぶかについても言えるだろう。断定的に何でも言うところは避けた方が無難です。断定的な言い方を避ける人の方が信用できると私は思います。

こんなわけですから質問を受けるのは難しいことが多い。やって来られて、いきなり「治りますか」と尋ねる人がいますが、そういう質問にすぐに答えられるわけがありません。

症状をメールや電話で聞かれても、答えるのは至難のわざ。質問して来る人のお気持ちは理解できますが、そう簡単ではないわけですね。操法のわざに決してマニュアル化できない部分が残るのも、こんなことがからんでいるからではないでしょうか。

では、講座ではマニュアル化できない部分は教えないのか? 私自身はどのようにしているのか、と振り返ってみると、実は【私の判断と操法を例として示している】のだと思います。自分のことは分かりにくいものですが、じっと振り返ってみると、そんな風に思います。

それは例えば「茶道」の師匠も同じではないかと思いますね。師匠は自分の好みというか、自分の生きざまに従って茶道の組立を例として示しているのではないだろうか。

伝統に従っているだけではつまらないものになるのは、そういうことでしょう。「生け花」や「落語」も同じだと思います。最終的には師匠が例を示すより他に方法がない。

弟子は、師匠の操法を真似るのが勉強です。何でもマニュアルの世の中ですが、マニュアル化できないものを学ぶところに本当の勉強があると私は思っています。そうしているうちに、その人独自のものが生まれてくる。

一人ひとり人格も骨格も違いますから、10人の人がいれば最終的に10人とも操法が異なる。同じ技術を使っていても同じにならないのは、そういうことではないか、というのが結論です。