路地裏の整体術 第850号 2015年11月6日
▼ 操法にある即興的な要素
昨日の集中初級講座でのできごと。参加者のTさんが急に激しいセキこみです。どうされたのか、と尋ねてみますと、この時期にのどがおかしくて、よくセキこむことがある、と言われます。
セキを止めるには、どうすればよいか。普通に考えれば呼吸器の問題ですから、胸椎の4番~6番あたりを調整すればいいことになります。しかし、この時は、「毒出しツボ療法」 の考え方を採用してみようと思いました。
つまり、セキが出るのは、胸の上部にある打撲痕が原因だと考えるわけです。そこで、上胸部を緩めるという考え方です。「毒出し」 の方法に従うなら、上胸部の打撲痕を指圧棒などで擦ることになりますが、女性のTさんに対して、それはやりにくいので、代わりに足の甲に愉気してみようと考えました。足の甲に愉気すると、上胸部が緩むことは、これまでに何度も経験しているからではありますが、かなりひねくれた判断、まがりくねった判断をしたことになります。
なぜそういう判断が出て来たのか、と聞かれてもうまく答えられない。誰でもうまく答えが出て来ないけれどある判断をしてしまうことは、あるのではないでしょうか。
というか判断というものが、そういうものだ、とも言えます。手近な例を挙げてみると、ご飯を食べに行くのに、和食なのか、イタリアンなのか、はたまた中華なのか、どうして決めるのか、と聞かれても、「何となく」 とでも答えるしかないでしょう。
「何となく」というような曖昧なことで操法を判断していいのか、と詰め寄られると困ってしまうのは、こういうことがあるからです。言い換えれば操法というものには、本質的に即興的な要素があります。ジャズ奏者が、なぜそんな音が出てくるのか、と聞かれても、うまく答えられないでしょう。ともかく、その時の感覚で、そういう音が出てきた、その音には、調和がある、と感じる、というのが奏者の言い分です。ピアノもドラムもベースも、そう感じて、それぞれの音を出している。
ここのところは、理屈で説明できないでしょう。理屈では説明できなくても、それでうまく行けば、操法として成功していることになります。ですが、こういう時の呼吸を教えてほしいと言われても、うまく教えることは不可能です。即興の感覚は、操者(奏者)が自分自身で磨くしかない。
さてそんな判断をして、私はTさんの足元に坐り、足首に手を当てて、愉気を続けました。細かくみると、親指を内くるぶしの下、中指を外くるぶしの下、掌を甲の部分に当てて、じっとしているだけです。これでセキが止まる自信があるわけではありません。ともかくやってみるしかない。でも、何となくセキが止まる気がする。
そうすること数分。ころはよしと愉気を止めて、自席に戻りました。Tさんは楽になりましたと言われるけれど、こういう時のこうした発言は好意的なものになりがちで、私はあまり信用していません。その後、どんな反応が出るかをじっくりと観察することが必要です。でも、見たところ、頭部・頸部・上胸部の続き方を見ると、楽になっているように感じられました。
この日、講座が終わってからPCにTさんからのメールが届いていて、そこに 「セキがピタッと止まり驚きました」 とありましたから、これでうまく行ったことになるのでしょう。ああ、よかったと私は胸を撫で下ろしたという次第。