2017年3月21日
三題噺(さんだいばなし)のようなタイトルで、何のことかと訝しく思う人が多いかもしれません。
え、三題噺って何か分かりません? まったく関係のない3つの題を出してもらって即興でお話を作るということです。
ここで三題噺の練習をしようというわけではなく、こんな題が付くような操法をすることになった経緯をお話しようという次第です。
以前、毎回のように教室に通っておられたFさんに梅林でばったり出会ったんです。
以前ちかしくしていた人と、どこかでばったり出会うということがあるものですが、それは単なる偶然ではない。自分自身が、この人を引き寄せているのではないか、そんな風に私は感じます。
案の定、それから数日して、このFさんからメールが来た。手が痺れて鉛筆が持てない。何とかならないか、というご依頼でした。
してみるとFさんの方からも、私を引き寄せていたのかもしれません。
さて、Fさんが奥様づれで、いらっしゃいました。さっそく手を拝見するのですけれど、どこが悪いのか、よく分からない。手がしびれるという人には、胸鎖関節やら、肘やらを探ってみるものですけれど、そんなところを調べてみても、一向によくなりません。
時間がかなり経って、こちらにも焦りが出て参ります。
こういう時は操法を止めて、じっくり考えるに越したことはありません。トイレに行くのもよし。お茶を飲むのもよし。別にサボっているわけではなく、気分転換を図るわけです。
そうすると、いままで自分を縛り付けていた発想から離れることができます。
しびれの原因が掌側にあるのか、甲側にあるのかを確かめてみよう、という発想が沸いてきました。
── 掌を広げる時と、閉じる時と、どちらが痺れを強く感じますか。
── 広げる時ですね。
── そうですか。屈筋側に問題があるわけですね。
という答えが出たということは、掌側に問題が潜んでいるということになります。肩から肘、手首とたどる道筋は主に甲側に発想しているでしょう。これは逆のことをしていたに違いない。
屈筋側に問題が潜んでいるとすると、手首から先の屈筋は掌の「浅指屈筋」が代表的ですから、その辺りに何か原因があるのではないか。
とすると、最近よく取り上げている、金星丘と内臓の関係が、どこか知ら繋がっている気がします。
内臓の下垂があって、そのために浅指屈筋に拘縮が発生している。それが痺れの根本原因になっているのではないか。
今まで、こういう発想で操法をしたことはないのですけれど、こういう発想を採用しなさい、と「天からの声」が届いているのだと考えてみたんです。場合によって、このような飛び離れた発想を採用することも必要です。
自分の発想が何かに固定してしまうほど怖いことはない。
固定してしまうと、にっちもさっちも行かなくなって、苦し紛れにおかしな操法をしてしまって失敗したことが、これまでにも何度もありました。力づくで何かをしようとしてしまう。これは完全に失敗のパターンです。
発想の転換をすることが、ぜひとも必要な場面がときどきあります。特に従来の操法で、いかんともしがたい場合。
そういう訳で、Fさんの掌をあちこち押さえてみました。すると、案の定、あちこちに圧痛があります。圧痛の位置に応じて、内臓を軽く押さえて押し上げてみると、圧痛が消えて行きます。
手の痺れを取る操法としては、何重にも迂回して手に戻っているという奇妙な操法に違いない。
けれど、やっていて、これだ、という感触を感じました。圧痛が次々を消失していくからです。
── これでどうですか。痺れは?
── 大部らくになりました。これなら鉛筆が使えそうです。
── それは良かった── といいながら私は、本当かな、と疑っています。
結局Fさんは、逆立ちをして、内臓の下垂を直してみます、とおっしゃる。確かFさんは、80歳が近いはずです。この元気に私は唖然とするしかありません。
私は今年70になりますが、負けてはいられないとFさんの元気をいただきました。何かと勉強になった一日でした。やはり偶然にFさんに会ったのではないと今でも思います。
内臓の下垂→掌の屈筋の拘縮→手の痺れ、という三題噺のような関係ですが、こういう関係が明らかになるというのも、共鳴法のメリットでしょう。