900 ファッションに学ぶ

第900号 2016年6月3日
▼  ファッションに学ぶ

私は時々、まるで畑違いの本を読みます。歴史や天文学の本を手にとってみることがあります。今回は、Kさんという女性から本を送っていただきました。それも畑違いも甚だしい、ファッションの本です。絶対に私が手に取りそうもない本を送りますというようなメッセージがついていましたから、Kさんは、このあたりの私の習性をよくつかんでいらっしゃったのでしょう。慧眼に驚きます。

というわけで、今回取り上げる本は、お勧めの本というわけではなく、たまたま手に取ってみた本という位置づけです。

豊川月乃
『あっ、モデルかな?と思ったら 私だった』
ダイヤモンド社(2016年3月、1400円)

まずは、気になる項目名を列挙してみましょう。

前髪を見ると姿勢が意識できる
高いヒールは誰でもラクラク履きこなせる
歩けば歩くほど美しくなる
残念な人は「開いている」
顔への思い込みを外す
バッグを持ち替えたくなる持ち方

例えば、少し引用してみましょう。

──意外なことに、前髪は体の歪みの原因になります。前髪を斜めに流している女性は、前髪を触るタイミングが多く、その場合は顔や体を傾けながら触っているため、たいてい前髪を流している方向に体が傾いています。

──モデルがウォーキングレッスンをするのは、週に1回、1時間半~2時間程度です。鏡張りの部屋でずっと自分の姿を見つめて歩き、その時間中は先生に 「首が前に出ている」「姿勢が崩れた」 などと言われ続けます。・・・

ですからみなさんも、「毎日がウォーキングレッスン」 というつもりで過ごしてください。歩けば歩くほど、360度どの方向から見ても美しいモデルに近づけるのですから、たくさん歩きましょう。

──ハイヒールを履くときは、まるで履いているように感じさせないのがいい歩き方。雲の上を歩いているようなイメージで歩いてください。

私が若い女性だったら、いえいえ若くなくても、ぜったいこの本をじっくり読んで見たいと思うでしょうね。

899 粒子状物質がいたずらをしている?

第899号 2016年5月29日
▼  粒子状物質がいたずらをしている?

一昨日の金曜日は、西日本で粒子状物質(以下 PM と略称)の濃度が高かったようです。私も外出から帰って初めて、のどや鼻、目の様子がおかしいことに気づきました。

その日の夜中に目覚めて、寝苦しいな、と感じ、いろいろ考えていると、ひょっとしてこれは、PM の影響ではないか、と思いました。PM の影響で交感神経が緊張しているのではないか、そう思ったわけです。

なぜ、こんなことを考えたか、と理由を聞かれても、的確に答えることはできません。ただ、こういう考えが生まれて来た時は、素直に従うことにしています。

アイデアが下りてくる時間として、昔から厠上、床上、馬上と言われますね。私の場合は、圧倒的に 「床上」 です。つまり布団の中。夜明け前に目が覚めて、布団の中でもぞもぞしている時に、いろんなことを思いつく時があります。

ちなみに「厠上」 はトイレの中。「馬上」 は現代ではさしずめ車や電車の中。

交感神経が緊張しているかどうか、どこで判断するか。耳の後ろの乳様突起です。乳様突起が大きく張り出している時は、交感神経が緊張型になっています。

そういう研究結果を出している誰かがいるのではなく、私が経験的にそう思っているわけです。逆に乳様突起が出っ張っていないときは、自律神経が副交感神経優位の側になっていて、安定している状態と考えられます。もちろんこの状態は個人差が大きいので、一般化すると、問題があるかもしれません。

私の骨格(側頭骨)が過敏になっていて、そういう動きをするだけかもしれません。

で、夜中に目覚めた私は、自分の乳様突起に手を触れてみた。なるほどね。かなりデカくなっています。いつもはここまで出っ張っていないから、これはPM の仕業に違いない。

昨日の日中は花盛りの植物園でゆっくり花の色と香りを楽しんできましたから、交感神経が立っているわけはない。なのに、乳様突起が出っ張って来ているのだから、心は寛いでいるのに、身体は緊張していることになります。

近頃は 「PM2.5」 などと気軽に呼ばれていますが、もちろん PM2.5 だけが問題というわけではないことを肝に銘じておくことが必要です。

PM は Particulate matter の略、つまり 「粒子状物質」。詳しくはウィキペディアを読んでみましょう。

──粒子状物質(りゅうしじょうぶっしつ、英: Particulate matter, Particulates)とは、マイクロメートル (μm) の大きさの固体や液体の微粒子のことをいう。主に、燃焼で生じた煤、風で舞い上がった土壌粒子(黄砂など)、工場や建設現場で生じる粉塵のほか、燃焼による排出ガスや、石油からの揮発成分が大気中で変質してできる粒子などからなる。粒子状物質という呼び方は、これらを大気汚染物質として扱うときに用いる。

黄砂とともにやってくるというので、中国を悪者にする言説が多いようです。確かに分布図を見ると、中国に大きな汚染源があるのは間違いないでしょうが、それだけだろうかという疑問が浮かびます。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%B2%92%E5%AD%90%E7%8A%B6%E7%89%A9%E8%B3%AA#/media/File:Modis_aerosol_optical_depth.png

この図から考えて、黄砂がもっとも大きな汚染源かもしれませんが、その他、ウィキの説明にも、「燃焼による排出ガス」とあることから、自動車の排気ガスも原因の一部をなしているはずです。そのほか、火力発電所であるとか、工場や建設現場からの粉塵なども原因の一部をなしているでしょう。

要するに、人間が出しているものが人間に降りかかって来ているということです。

具体的に、どのような被害があるのか、どんな時期に PM が増えるのか、など、有用な情報をまとめて掲載してくれている次のようなサイトがあったので、ご紹介しておきます。
http://marthanew.com/archives/2667.html

ただし専門家が作成したサイトではない、と断ってありますので、その内容の信ぴょう性については、読者それぞれで検討してください。

乳様突起の状態についても、あくまで私の個人的見解(感受性)ですので、その前提でお読みくださればさいわい。まあ、こういうこともあるかもしれない、という程度に読んでいただければ、いいと思います。

【結論】 乳様突起が飛び出している状態になっている時に、交感神経を鎮める方法はあるのか。手の平の小指側、知能線の終わり付近と感情線の起点とのあいだあたりを、知能線の終わりから始め、感情線の起点に向けて、指先方向にさっと、手の側面をなでればよろしい。すると、あらら不思議、乳様突起がへっこみますよ(下がっていた側頭骨が上がるといってもいいでしょう)。

なぜ。こんなところが、と不思議に思う人は、『共鳴法教本』 で顔の操法を研究してください。

893 かかと呼吸

第893号 2016年4月22日
▼  かかと呼吸

中国の古典中の古典 『莊子』(そうじ) の中に次のようなくだりがあります。

「真人の息は踵を以ってし、衆人の息は喉を以ってす。」
(福永光司・他訳、ちくま学芸文庫「内編」・大宗師編第六)

現代語訳の部分には、どう書いてあるか。「真人の呼吸は踵の底でするが、普通の人の呼吸は喉でする」 とあります。「踵の底でする」 とは、どうするのか、もちろん、そんなところから呼吸ができるわけはありません。「真人」 とは何か。これも現代語訳を読んでみると、「天の営みを知り、天とともに自然に生きる人」 というくらいの意味らしいと思われます。

そこで、どうするのか、やってみました。踵の底で呼吸をする気持ちで息をする、ということでいいのではないか。つまりある種の気功法を表しているのではないか、と考えたわけです。

歩きながら、やってみました。ゆっくり歩きながら二歩進む時に息を吸います。次に四歩進む時に息を吐きます。この時、踵の底から息を吐くつもりで吐く。これをしばらくやっていると、足がぽかぽかと暖かくなります。足の気のめぐりがよくなったのでしょう。冷え性の人は、試してみる価値があると思います。

なぜ二歩と四歩なのか。まず奇数にすると、左右が混乱して歩きにくい、という理由があります。そして、二歩と四歩は、吸う息は短く、吐く息は長くという原則に合っています。

なお、念のために付け加えておきたいこと。歩き初めの一歩は、自分の重心側と反対側でやるのが望ましい。歩いている時には、自然に重心側に意識が行っているもので、例えば私は左側に重心があって、左に左にと行きやすい。そこで、意識的に左右を逆にするのは難しくありません。

すると、吸う息の二歩の最初の一歩は重心とは反対側を出していることになりますし、吐く息の四歩も最初の一歩は重心と反対側を出しています。

このようにして歩くと、自然に無意識の世界を書き改めることができるように感じられます。どちらの足から先に出すか、というのは無意識の世界でどちらかに偏っているもので、そういう無意識はなかなか変更しにくいと考えられていますが、そうでもありません。かかと呼吸をしながら歩くと、自然に無意識が変更される。

そして、ここが重要なところですが、かかと呼吸を続けながら、私の場合ですと、朱鯨亭まで30分あまりを歩いて行くと、自然にからだ全体がぽかぽかとしてきます。気功法をしていることにもなる。一石二鳥にも一石三鳥にもなる。

手が冷たくて悩んでいる人は、かかとでなく、手先呼吸をしてください。手がぽかぽかと暖かになってくるでしょう。

これであなたも 「真人」 になれるかもしれません。そういえば、私の玄祖父(おじいさんのおじいさん)は、「真人」 という名前だったらしい。「まこと」 でも 「まさと」 でもなく 「しんじん」 だったそうですから、名付け親は 『莊子』 を読んでいたのでしょう。ちなみに 『莊子』 を書いた人は、「そうじ」 ではなく、「そうし」 という名前でした。

891 臨床家の条件

第891号 2016年4月15日
▼ 臨床家の条件

医学の世界が、方向を見定める哲学を失っているのではないか、と正面から批判している歯科医がいらっしゃいます。丸橋賢さんという群馬県の方。

丸橋賢(まさる)
『全人的治癒への道』
(デンタル フォーラム、2004年、3500円)

少し前の本ですが、例によって奈良のF堂という古本屋で見つけたものです。

歯医者さんの中に、極めて優れた人がごく少数ながらいて、突っ込んだ深い思想を持っている。そういう人の一人ですね。色んな方面に目がいきとどいていて、思わず引き込まれます。

冒頭に、こんな風に書いてあります。

「歯科医師は、全人的治癒像という素晴らしい成果を、容易に達成できる立場にいる。歯周病やウ蝕を根本的に治し、予防するという限局された仕事に止まらず、体力が向上し、疲れにくくなり、風邪も引かず、アレルギーや不妊症まで治り、気力充実して生きられるようになる健康状態をも実現できるのである。膠原病が治り、精神科の管理から開放され、完全に社会復帰する例もある。」

「私は、歯科医師は素晴らしい可能性を秘めた仕事であると信じている。しかし、歯科医療の現実は、そのような達成可能な目標から、あまりにも遠く離れている。」

そして、本書の最後の方では、鮎川信夫の詩、大岡昇平の小説などが取り上げられています。

丸橋さんの書いていることを操法に取り組む立場から解釈しなおして、まとめてみましょう。第3章 「哲学なき科学を超えて」、第4章 「優れた臨床家の条件」、第5章 「歯科医療の荒廃を越えて」 の3つの章に丸橋さんの言いたいことがまとめられていると感じられます。

まず医学が哲学なき科学になってしまっているのではないか、という疑問。科学は確かに大きな成果を生み出したが、何をどう選択して行くかという価値観=哲学を確立していなければ、方向を見失ってしまうのではないか。いや、すでに方向を見失っているのではないか。

確かな哲学をそなえた人物の例として丸橋さんが上げているのは、ヒポクラテス、ゲーテ、湯川秀樹、です。

例えばゲーテの 『若きウェルテルの悩み』 の一部を引用してあります。

「ぼくは流れ下る小川のほとりの深い草の中にからだを横たえ、大地に身をすり寄せて数限りないろいろの草に目をとめる。草の茎の間の小世界のうごめき、小虫、羽虫のきわめがたい無数の姿を自分の胸近く感ずる。・・・
そんなときぼくは万感胸に満ちて、こう考えるのだ。ああ、こんなにも豊かに、こんなにも暖かく己の中に生きているものを表現することができたらなぁ。」

このような感動が臨床家の資質として必要だといわれます。

「好きこそ物の上手なれ、ということわざの通り、臨床を好きになることが最も大切である。が、現実に現在の歯科医師をみるとき、臨床を愛し患者を愛し、仕事に生きがいを感じている人はごく少数であるように見える。大多数はあまり情熱もなく、惰性的に保険制度に毒され、半ばいやいやながら仕事をしているように見える。」

厳しい見方ですが、さて、操法の世界はどうでしょうか。セミナーや講座に参加して来られる方々の表情をみていると、操法の世界では、多くの人が情熱を失っていないように私には感じられます。

ただ、臨床家としての資質を持つために、幅広くいろんな分野に関心を持ち、いろいろな取組を続けることが求められているでしょう。ゲーテはよく知られているように、文学に親しんだだけでなく、自然科学の本を何冊も書いています。例えば 『色彩論』 が有名です。

ゲーテの天才を真似ることは無理でも、せめて色々な分野に興味を持って接したいものと思っています。

884 いい加減の勧め

第884号 2016年2月26日
▼ いい加減の勧め

例えば、橈骨が下がっている時、それを調整するのに、橈骨茎状突起を上向きに押える方法と、下向きに押える方法と、二つの方法があります。

(*橈骨茎状突起:手首の親指側にあるグリグリのこと。橈骨の下の端なので、こういう名前がついている。)

講習の時に、こういう話をすると、必ず 「どちらがいいんですか」 という質問が出てきます。

「どちらでもいいんですよ」と答えると、みんな怪訝な顔をする。人によっては、「そんないい加減な」 という声も出てきます。

いい加減 ──でいいじゃないですか。

皆さん学校で ◯× 式の教育を受けて来たから ◯× か、どちらかでないといけないと思いこんでいます。確かに、鳥類か哺乳類か、と聞けば、どちらかしかないかもしれない。でもカモノハシという変わりだねもいるわけですね。

◯ でも × でもある、という変ったのがいるわけです。コウモリなんていうのもいるしね。あれは哺乳類だ、と力んでみても、確かに鳥類の側面もある。

どちらでもいい、という存在を積極的に認めるという発想法が重要じゃないか、と私は思っています。積極的というのは、どちらでもいいような存在に出会った時に、それは例外的なものだと考えるのではなく、迷った時に、そういう中間的な存在を進んで認めようじゃないか、ということです。

あれか、これか、と割り切る前に。あれもこれも、と考えようじゃありませんか。

で、橈骨茎状突起の最初の課題に戻って、この場合にどう操法すればいいのか。上向きでも下向きでもお好きなように、ということになりますが、そう言われても困るのであれば、上向きと下向きの中間、つまりじっとしている、その人の好みに合わせて、上向きの直接法がお好みの人は、気持ちだけ上向きで、じっとしている。下向きの間接法がお好みの人は、気持ちだけ下向きで、じっとしていればよい── こういう結論です。

「そんないい加減な」  という発言をした方。これではまだ満足できませんか。

874 ネイティブ・アメリカンの知恵と哲学

第874号 2016年1月19日
▼ ネイティブ・アメリカンの知恵と哲学

整体の道を歩む人たちは整体のことだけを学べばいいわけではありません。どんな技術でも、他の人間の活動すべてとどこかで繋がっているものだからです。そこで、

少し古い本の紹介で恐縮です。出版そのものは古い(原典1990年、日本語版1998年)ですが、内容は少しも古びていない。それどころか、現代の世界を引っ張る最先端であると感じられるものです。

ジョセフ・プルチャックというネイティブ・アメリカンの編者が同じ民族の人たちの発言をまとめたもので、『それでもあなたの道を行け』 と題されています。訳者は宗教学の中沢新一さん他。

私たちは、しばしば自分の生き方はこれでいいのだろうか、と迷う瞬間があるはず。私たちが対象としている整体の世界も、色々な考え方ややり方があって、どの道が正しいのか迷う人も多いことでしょう。その内のどれを選ぶかは自分の中の基準によるしかない。ところでその基準は正しいのだろうか。

まずこの本の編者の言葉を読んでみましょう。

── 北アメリカ先住民の宇宙は、かつても、そして今日においても、かなりの程度が霊によって形づくられ、霊によって見守られる世界である。アメリカ・インディアンの何百という異なる部族のなかでは、少数の男女が、聖なる領域の専門家である。メディスン・マン、司祭、ヒーラー、医師、シャーマンになるようにという「お召し」を受けて、これをいつも運命として受け入れてきた。
しかし、部族のすべての人々が理解していたように、どんな人間にも霊と直接に接触する能力は与えられており、知恵を獲得したり祈りをささげたりするのに、霊と人間のあいだの仲介者はかならずしも必要ではない、ということも、この人たちはよく知っていた。

この本には、各部族の族長クラスの人たちの写真が、たっぷり掲載されていて、その顔つきが実に美しい。どの人も堂々たる顔をしています。そしてその人たちの発言が素晴らしい。例えば、

── なにかを生み出すもの、それはすべて<女性>です。女たちはつねに、万物のつながりを知っています。そのつながりを、男たちがよく理解するようになったら、この世界はもっと良いほうに変っていくでしょう。

── 私の子どもたちよ、人生の道を歩んでいるときには、けっして他人を傷つけてはいけないし、悲しい思いをさせてもいけない。反対に、おまえが他人を幸福にできるようなときには、いつでもそのようにしなさい。

── 私はこれまで祖父にも祖母にも、また他の誰にも「なぜ」などと尋ねたことは一度もない。「なぜ」などと尋ねれば、それは私がなにも学んでいないということを意味し、自分は馬鹿であると言っているようなものだから。ところが西洋人の世界では「なぜ」と尋ねないと、馬鹿だと思われてしまう。
私は「なぜ」と人に尋ねるのではなく、人の語ることに耳を傾け、自分で気づくようにしなさい、と言われて育てられてきた。そんな私にしてみれば、人々が私と同じように、自分のことや私のことについて、なにかの理解をもっている、つまり宗教をもっているのは、ごくあたりまえのことなのだ。そうやって自分のことを知れば、私たちは気持ちをひとつにできるし、たがいの理解をわかちあうこともできるようになる。

── 頭のよい人ほど神を必要とする。自分はなんでも知っているという思考から自分を守るためにも。

そして、一つの結論。

── すべてのものが、あなたのために用意されている。あなたの道は、前方にまっすぐ伸びている。ときどきは、見えないこともあるが、それでも道はそこにある。道がどこへ続いているのか、あなたは知らないかもしれないが、どうしてもその道をたどっていかなければならない。
それは創造神への道であり、あなたの前に伸びているには、一本のその道だけなのだ。

ちなみに、この本は以前、朱鯨亭にあったのですが、私の手元から消えていました。先日、近鉄奈良駅近くのF堂で見つけて再読し、高い価値があると再認識した次第。

860 こだわり

路地裏の整体術 第860号 2015年12月10日
▼ こだわり

どんな人にも 「こだわり」 があり、自分自身ではそのことに気づきにくい。

操法家にとって難しい課題の一つですし、よくなりたいと思っている人にとっても重要な課題でありながら、意識しにくいことかもしれません。

「捕われ」 と表現すると、そんなことは自分には無関係だと考える人が多いかもしれませんので、「こだわり」 と言う方がいいでしょうか。でも自分のどこかが悪いということに 「捕われ」ている人は多いのではないか。

例えば 「心臓が悪い」 と思い込んでいると、いよいよ悪くなってしまって、胸が痛いと感じたり、動悸を感じるなどという事態です。よくあるのは 「手足がしびれている」 と思い込むと、本当にしびれを感じてしまう。

その上、病院で何かの病名をつけてもらう。こうなると、もういけません。その病名に捕われてしまいます。

五十肩ではないのに、病院で 「五十肩ですね」 と言われたためにそう信じこんでいる人がいる。すでに肩の痛みが改善しているはずなのに、「五十肩」 ですから治りませんね、などと言う。

「ヘルニア」 だから手術しますか、などと言われた日には、再起不能ではないかと思い込んで腰がへなへなになっている人もいます。

昨日こられた70代の男性Tさん。脊柱管狭窄症があると診断を受け、左脚が常にしびれているという。特に膝から下がひどく、湿布を貼ってしのいでいる。

実は昨日が初めてではないのですけれど、何度か操法をしても 「よくなった」 とは決しておっしゃらない。

通常はこのくらいのことをすればこうなるだろうと見通しをもって操法をしているわけですが、そのたびに 「まだここがしびれていますね」 と言われる。Tさんのお話のなかに◯◯病院でどうこうという話しがたびたび出てきますが、それはTさんが病院で言われたこと、されたことに捕われていらっしゃるからに違いない。

確かにしびれているには違いないのでしょう。ですが、Tさんのエネルギーが、言い換えると当人の意識のエネルギーが 【症状の改善】 の方向に向いておらず、【症状の持続】 の方向に向いているのではないか、という感想を持ちます。

それが事実なんだからしょうがないだろう、とTさんはおっしゃるかもしれない。でも、この後の推移からみれば、少しでも改善すれば 「よくなりました」 とおっしゃる人の方が、よくなりやすいというのが、常に感じることです。

こういう場合に「数字でいえば、初めを10として、今いくらぐらいですか」と尋ねるやり方もありますが、そんなことをしてみても本質にはかかわりがない。同じことです。かえってその人の「こだわり」 を強化してしまうのではないか。

特に高齢の方に多いのは、操法している者の感じでは、改善しているはずなのに、現在の状態がどうかという質問には答えず、「いつもこの辺がしびれているんです」 というように自分がいつも感じていることを表現をする人。

Tさんの場合もそういう趣きがあり、従来の症状への 「こだわり」 が見られます。気持ちが 「持続」の方向へ向いているわけです。自分の症状は改善するはずがない、と本心では思っている。

症状というものは、本人の考えていることを正直に反映しているもので、本人がそう思っていては改善の方向に決して向わない。

例えば整体の先達である野口晴哉(のぐち・はるちか、1911-1976)は 『愉気法1』(全生社) という本の中に 「受け身な心では丈夫になれない」 として次のように書いています。

──病人になっている人たちは、自分で病気を治そうとはしない。しかし自分の体は自分で丈夫にするより他にない。お腹が空いても、今忙しいからといって、他人に食べてもうらわけにはいかないし、他人に気張ってもらっても、自分の大便は出てきません。自分が弱ったからと言って、他人に頑張ってくれと一生懸命頑張らせても、自分が丈夫になるわけではないのです。(46ページ)

なぜ、しびれが出ているのか、そちらを考えてみましょう。Tさんの骨盤は、左に傾く傾向にある。何度か直しましたが、やはりそうです。一緒にいらっしゃっている奥様は、姿勢が悪いんです、と繰り返しおっしゃいます。坐っている時の姿勢が悪いと。

そのために左脚の腓骨頭(膝の外側下にある突起)がひどく飛び出している。みたところさほどのO脚ではないのに、腓骨ばかりがひどく飛び出しているのが目立つところです。体重が外にかかっていることを表しています。

Tさんはあまり歩いていないので、体重が外にかかる原因は、歩く姿よりも坐っている時の姿勢にありそうです。坐っている時にお尻が自然と左に向っているに違いない。Tさん自身には自分の体重が左に向っているという自覚はないのでしょうが、そんな坐り方だろうと、想像がつく。

坐っている時に自分自身で、体重の方向を補正する工夫をしてもらうことができなければ、直しようがありません。お尻に何かを当てるとか、横にクッションを置くとか。私が、どうしてこうしてではなく、本人が主体的に改善の方向へ向って、努力しないとどうにもならないことがあります。どんな風な体操をしたらいいのか、と尋ねる人がいますが、私がこういう体操をしてください、と指示して、その通りするというようなことだと 【主体的に】 本人が取り組んでいるとはいえないでしょう。

それじゃ、あなたは何をするのか、というお尋ねがあるかもしれません。私は、ただ、そういう活動のお助けをするだけで、私が直すわけではない。間違ってもらっては困るのです。あなたの体を直すのは、あなたの体が持っている力でしかないのですから。