989 不安について

第989号 2017年9月12日
▼ 不安について

多くの症状をかかえ、それを繰り返す人がいます。こういった人から、この前みていただいたら、悪化して痛くなってしまった、何とかしてほしい、というような電話をいただくことがあります。

こういう時は、休みの日でも、時間外で臨時に拝見することがあるのですが、それでよくなることもあり、あまり変化のないこともあります。(どういう場合に変化があるか、というのは重要な課題ですが、それについては、別の機会に取り上げたいと思っています)。

こういう人とやり取りをしていて、強く感じるのは、この人は不安を抱えているのではないか、ということです。

例えば、病院で診てもらったら「脊柱管狭窄症」といわれた。背骨が歪んでいるので、神経と触っているという。そのことが強い不安を生み出しているわけです。

背骨のこの辺りが悪いらしい、このちょっと出っ張っているところが、これ以上歪んで来たらどうしよう。もう立てなくなるのではないか、まともに歩けなくなるのではないか、という不安を感じることになります。

そのため、その辺りに少し痛みを感じると、ああ、もうだめだ、どうしよう、どうしよう、俺はこれで終わりになるのか、というような不安を感じる。すると、余計にそこが痛くなってくる。

そのことが潜在意識に忍び込んで、夜中に悪夢を見るかもしれません。こういうことは、迂闊に人に話せないので、自分ひとりの胸にしまいこんでしまう。すると、もういけません。余計に不安のエネルギーが増大して、同じようなことを繰り返してしまう。

そこで、私のところに電話をして、何とかしてくれないか、と言ってくることになります。ある場合には、朱鯨亭の予約をキャンセルして、別のところの予約をとり、整体ショッピングをする人もいるらしい。

こういう人が、実は多いのではないか、と想像するのです。

誰しも、自分が不安を抱えて、それで苦しんでいるなんて、他人にいいたくない。医者にも整体屋にも話さないということになりがちなのではないか。

すると、不安がいよいよ内向してしまいます。

「脊柱管狭窄症」だけではありません。ヘルニアや膝痛でも、内臓疾患でも、同じことがありうるのではないか。

一つの症状があると、それが気になってしようがない、大して強い症状があるわけではなくても、こりゃもうだめだ、と感じてしまう

こんな「症状神経症」的な人が多いのではないか、と感じられます。一に健康、二に健康、という世間の風潮も、このことに拍車をかけているのではないでしょうか。

ですから、医療や、癒やしに関わる者は、相手に不安を与えるような発言を決してすべきではない(これは私自身への戒めでもあります)。家族も同じです。ところが、病院で言われたことに不安を感じて、やってくる人が実に多い。困ったことです。

医術の古典として知られる古代ギリシャの医師ヒポクラテスの 『古い医術について』(岩波文庫)という有名な本がありますが、その中に流行病という項目があり、古代の流行病のレポートを読めます。これを読んでみると、最後「精神異常」を起こして亡くなったという記述が多いことに気づきます。

つまり病気というものは、最後は不安にさいなまれるという事態になりやすい。脊柱管狭窄症やヘルニアで死に至るわけではありませんが、不安な心は、そういうところに追い込まれてしまう。

そのことを、周りの人たちはもっと考えるべきだ、というのが私の感ずることです。逆に患っている人の立場に立って言えば、自分自身の不安感を克服することが、重要な課題だということになるでしょう。

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